Blog
自分で探究しない練習など、なんの意味があるでしょうか。
今日は和歌山の中学生が、3時間、跳んで跳んで跳びまくりました。
運動のしかたを探る時間は、頭をポワンと緩ませて身につくものなどありません。
神経が敏感になってこそ、新しい運動感覚に出会えます。
跳ぶ動作の直すべき悪いクセを見つけて、一つずつレッスンしていきました。
そのときに学んでいる人、自ら練習している人は、見る見る変わっていきます。
できないことができるようになっていくし、動きが段々と良くなっていくのですが、一方で探るのが弱い人はいつまでもそのまま。
頭が寝ているし、受容器がオフで反応しません。
そんな鈍いことで動きが変わるはずもない。
自ら積極的に練習せずして、習得される技術は無いのです。
全員成長の梅トレでは、文字通り全選手の感度が上がるよう仕掛けます。
待ってなどいられませぬ。いったい、いつ上がることやら。
いや上がることなど永久的にないのです。コーチがあげるしかない。
これはきれいな理想論で済まない現場のリアルです。
かくしてお尻の使い方、上半身の導入、腕の積極性、踏み足の上達と、順番に練習していき3時間に近づこうというころにようやくボールを加えてリバウンド・キャッチが始まりました。
まだまだ跳びます。
一人の練習、二人で練習、ボードに当てて練習と進め、時間が大幅に過ぎてしまったため最後は全員で連続タップをしてクリニックを締め括りました。
新入生も初参加しましたが、よくやったと思います。
覚醒すればなんでもできる。
自分をつくるのは、どこまでも自分自身ということです。
ずいぶんと良くなったんじゃないかな。
やっぱりみんな天才。誰しも伸びる可能性があるのです。