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いまの日本では禁止事項が多くて、なんでも一つに限定する傾向が強く出ます。
スポーツもいま一部で部活と外クラブが水と油になっている様子があり、その根っこには所属意識の強さが感じられます。
本来、人生において人は様々な顔を持っています。
顔とは性格的な意味では無く、たとえば学校の生徒としての自分、家族の長男としての自分、スポーツの選手としての自分など、別の言い方に変えるならば「立場」がちょっと近いかもしれません。
学校の生徒の顔だけがその人ではないし、人生のすべてでもありません。
たとえ時間の大半を生徒として過ごしていても、その顔だけが自分であり他は捨てないといけないなんて、おかしな話です。
でも日本では何者かを決めたがり、一カ所に限定する思考が強く出ます。
その分かりやすい構造が、たとえばスポーツチームです。
どうしても人は、なにか一つに偏る。
選択をして1本に絞っているのとは明らかに違う不器用さ、いや頭の固さのようなものがありませんか。
物事を進める際にある一つの手段しか持ち合わせないとか、必ずこのスタイルみたいな縛りが、いまだけの話ではなく昔から存在しています。
それがゆえ、人は自らを縛るための規則をたくさん作ってきました。
規則の本質は、全体をフェアにすることです。
そして秩序を保つためのものでもあります。
それがなぜか手足を縛るものになっていませんか。
思考も行動もひとつに固定するから、生徒としての存在がすべて、その学校や地域がすべてみたいなふうになり、他の勝手をするなという雰囲気が出る。
社会全体に対してそうであるから、結果的に自らをも縛っていて、そうしているつもりはなくとも自然と同じ行動や色を求め、枠からハミ出ぬよう行動します。
これはちょっと、ムラ社会とも通ずる面があります。
他を寄せ付けない、交流しない、外の文化を取り入れない、外へ出て行かない、そうった頑なに独自の色に籠もる気質です。
はるかむかしむかしの話などではないですよね。現代もさして変わっていません。
だから自由にしているようで、意外と狭い生き方をしているのです。
なにかすればすぐに角が立ち、皆と別の行動には必ず批判が起こる。
それは遠慮したり我慢したり禁止したりするから、社会に奥深くに不満が溜まっていて、自由な人や違う言動をする人が許せないのです。
とすればあまり良いことはありません。
僕らはそんな社会で育っているから、なにをするでも新しいものやステップアップに躊躇する体質があります。
どんどんやってみたらいいのに、もっとたくさんのことに目を向けてみたらいいのに、消極的だしそもそも意欲的ではありません。
年を重ねるにしたがい、だんだんと一カ所に留まりその範囲だけで人生を過ごすようになっていきます。
目立っては困る勝手なことをされては困ると釘を刺され、実際はなにも悪いことはないのになぜか縛られます。
そういうのがちょっと極端なのですね、日本は。
日本全国、北から南まで、すべてが同じ感覚でなければといけないと考えてしまうのが悪いクセで、あのチームとこのチームでは目的も目標も違うしそこへの手段も違うことを認める意識がありません。
スポーツについての考え方、扱い方は様々あって然るべきです。
家庭、学校、会社・・・すべてについて言えることです。
だから個人についても、たった一つだけのその人とせず、あるときは選手、ある場面では生徒、ここでは兄や妹、などとポジションをかえていく自由を持つべきだろうと思うのです。
人を決めつけない、すべて広げてその人物を見るようにできれば、よそ者扱いをしたり、縛る囲うといった行為は減り、本当の自由で活発な生き方ができるはずです。