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昨今、バスケットボールは教育ではなくスポーツだと言って、規律や管理を否とする意見が増えています。
なかには無理にこじつけて軍国主義に生まれた体育がどうのと、まるでいまや日本には無い軍隊とスポーツが繋げられているかのような発言まで。
そこまでいくと笑止千万ですが、何にしろ「スポーツ」だから人間的で社会的な学びは無関係だという発想は、まさに現場を知らないウォッチャーならではと言えます。
大きな誤りは「だから部活は悪なのだ」という連想になってしまうことであり、そこから脱却しようとする改革がクラブ化であるかのようなミスリードがあります。
もし部活ではなくて外クラブであっても、そこには人間同士のコミュニティがあります。
そこでは「あいつは才能があるのに天狗になっているから練習しない」とか「あの選手は体格に恵まれているけどデタラメな性格がすべて災いしているよな」などということが、わりと日常的にあるはずです。
どのような場であっても、人が関わることならば性格や行動が未来を分けます。
必ずそこは存在するので、僕らは部活じゃなくても学校じゃなくても、家の躾や教育などと堅苦しく言わなくとも、人間関係には必然として学びと成長が生じるのです。
人間的性格が行動を決めるし、それがチームとなれば社会性が試されます。
部活や学校ではなくとも自分だけの世界から出たみんなで分け合う環境では、相手への尊敬と協力が必要なのであって、学びのない身勝手な行為は自分を落とすのみならずその周囲をも困らせます。
気難しく考えなくても、人同士が交わる世界には必ず社会的な訓練と自分を磨く勉強がつきものなのです。
それらはすべて教育です。
僕らは人生で自らを教育しているのですから。
それがどうも抽象的になり、意見というのか持論なのか、現場にいない世の中ウォッチャーの人たちはありもしないことを極論で切り捨てようとします。
「スポーツを通じて教育をする」という言葉に反応する人もいるし、「学校教育の一環」が嫌いな人もいるようです。
高校野球でのパフォーマンスを巡る賛否は、それをよく顕した例でしょう。
集団が出来上がれば、そこには必ずルールや約束事が必要であり、それは公の環境(社会)を保つだけではなくて、個人の考え方やそこから生まれる行為行動も良くなっていきます。
学ばず自らを教育しない人はいかに恵まれた体格や環境をもらっても、心掛けないが為にそれを台無しにする可能性が高いし、人生にプラスの行為行動を取る人は間違いなく結果も伸びていくでしょう。
それは誰も否定しないはずです。
自分を伸ばし集団としても良くなる、これはまさしく教育の賜です。
それは学校もスポーツも、友達と遊ぶのでもすべて同じことです。
頭が使えず生活が物臭ならば人生を失敗するだろうから、それを他人が管理して訓練させることは社会の良い面ではないでしょうか。
それで子ども時分からデタラメだった生活が変わってまともな大人になれるのなら、こんな素晴らしい助け合いはありません。
社会というのはそういった仕組みがあるところです。
話を戻して、スポーツとくにチームスポーツでは管理と勉強は大きなプラスです。
子どもでも大人でも。
自分自身でそれをできないのならば、他人がするのは妥当です。
それを一応、たとえば10代スポーツならば大人が担い、プロなど社会人スポーツでは監督やコーチときにオーナーといった管理職が担うということです。
はっきりと申し上げて、生活指導をしていないチームはどれほど運動で優秀な人材を集めてきても試合に弱いです。
本性や裏では悪い面があっても、それを表面化させないよう規律を保つ努力をしていると、着実に力は伸びていきます。
それは部活云々、教育云々じゃない。
無責任に他人様の生き方を「〜すべきだ」などと言うつもりは毛頭ありません。
ここでは僕が毎日現場で目にしている事実を、ありのままお伝えするまでです。