梅原淳の心*體みなぎるエッセイ/Playground Heroes

運動の専門家が子どもたちの成長をスポーツ*子育て*教育など、あらゆる視点から応援します

私が部活の顧問たちと何を話しているのか

 自立とはなんぞや、競うとはなんぞや、仲間とは....。

 いつも教師たちと、そういう類いの話になる。バスケットボールの細かいテクニカルな部分は、あまり話題に上がらない。

 なぜか。学校で子供たちを導く先生たちは、皆よくわかっているのだ。私も同じように思う。なにをするにせよ、私たちの、人間の生きるど真ん中のことがしっかり出来上がっているのか?ということ。自分の足で生きているか、自分の意思で人生を歩んでいるか、すべてはそこだと考える。いや肌身にしみて実感する。

 人生で学びたいど真ん中は、誰の力でもなく自らの考えと行動により道を切り拓いていくことにあると、強く感じている。細かいあれやこれ、勉強とかバスケットボールとかトレーニングとか、そういう端々なんてものは己の柱さえ出来上がっていれば自然と伸びていくし、他人が口を挟む必要もない。すべて自分の力で登っていける。

 だから私はいつも、理論やノウハウなどの細かいことにはあまり注力していない。これは手を抜いているという意味ではない。その端々にばかり手を伸ばしても、結局生きる上での柱が備わっていなければ何も変わりようがないと、分かっているからだ。

 すべては生き方であり生き様、ここに関わってくると思う。普段から怠けてろくでもない生活をしているやつが、バスケットボールのときだけ頑張るわけがない。

 例えば家で母親に、あれを手伝ってくれとか用事を任せたいと言われたとする。わかったなどと言いながら、右から左に聞き流してほっぽらかしておく。そんな日常だったらどうだろうか。

 もしくは、脱いだらタンスにしまえ、開けた扉は閉めてくれ、門限は何時、そんな事を注意されてもいっこうに正そうとせず、周囲に迷惑をかけて好き放題に振る舞うやつはどうだ。

 生きる真ん中がデタラメな者に、勉強やスポーツの英才教育は価値を生まない。

 だから、親や学校の先生にはじまり、私たち大人が子供たちにするべきことは、本来生き方を示すことや自分の背中を見せることにあると考える。

 技術や理論、ノウハウをマスターさせることに躍起になり、主がそれになるとただのしゃべる参考書に陥りかねず、指導者の自己満足もしくは見映えにしかならない。やれどもやれども完成品ができず、いや近いものにすらならなくて、まず間違いなくコーチは「こんなに色々やってるのにどうして良くならないんだ!」となってしまうだろう。

 でもそれは当然のことなのだ。バスケットボールをしているのは、それとは関係ないところで性格を形成した生身の人間なのだから。その者の日常から磨いていかなければ、バスケットボールだって良くはならないに決まっている。

 物事をしているのは、様々に性格や考え方を自由に持った人間だ。表面のバスケットボール・スキルだけを見て、それだけをアプローチしても何も変わらない。

 教育の現場で働く人たちはそれを痛いほどよく解っていると、私は確信する。