梅原淳の心*體みなぎるエッセイ/Playground Heroes

運動の専門家が子どもたちの成長をスポーツ*子育て*教育など、あらゆる視点から応援します

きみは制約された人生をどのように望み臨むか

 ある本を読んでいて、「制約」というものについて論じられていた。制約がいかに素晴らしくて有り難いかを筆者が訴えていたのだが、それを読んだ私が考えたことを少しお話ししたい。

 制約というものは「縛る」とか「無理強いする」といった印象が強い。だからそれは民主的な世界において不適切ではないか、となる。しかし、私たちはすでに今の時点でも、じつは制約されて生きている。

 現実というものは何でも可能なわけではない。たとえば人間は空を飛べない。これは紛れもなく制約だ。また、人間に限らず生き物は皆死ぬ。これも免れることのできないものである。さらに人間は人間のまま一生を過ごす。象や豚には変われない。

 さて、これらの事で自分は制約を受けている、つまり「縛られている」「不平等だ」「けしからん」と考える人はいるだろうか。もちろんいるわけがない。なぜか。バカげたことをと思う人もいるかもしれない。でも少し真剣に考えてもらいたい。

 なぜ不満に思わないのか、制約を受けていると感じないのか。それは、誰もそのことが自分にとって不都合なことではないからだ。そうなりたいそうしたいと思っていないから、制約とは感じない。

 誰も人間をやめて豚になりたいとは思わない。鳥のように空を飛べないが、別に飛びたいなんて微塵も願ってはいない。豚や象になんてなりたくないし、鳥のように飛べなくたって構わないと思っているからに他ならない。

 私は縛られている、人間はんて窮屈なんだと憤らないのは、それが自分にとって要らない物事だからだ。つまり不平等とか粛正・禁止などという話のときにはいつもそうであるように、人間には誰にでも自由に全てをおこなう権利があるとかなんとか、最もらしい正論を振りかざしつつ、所詮は個人的な思惑で都合よく言っているだけだったりする。

 欲しいものが手に入らなければ制約されている_自由・権利を奪われている_と言い、要らないものならばなんとも思わない。ただそれだけのことなのだ。ちょっと堅苦しいがぜひ気難しい話と思わずに、これを私たちの実生活や学校・部活動に置き換えて考えてもらいたい。

 世の中には様々な規則があり、規律を求められ、約束がある。それを「いかがなものか」とクレームを出してくる人がいる。強要ではないかと。権利や自由を不当に取り上げているのではないかと訴える。正直に「自分の望んでいるもの」とは言わず、社会的に悪い事という口ぶりで避難する。

 しかしそのほとんどは、利己的な都合に因るものである。自分にとっては都合の悪いものだから止めてもらいたい、その規制は外してほしいと言う。個人的に気にくわないから否定しているだけなのだ。だからそれは自由でも正義でも権利でもなんでもない。

 そのような生き方・考え方が長年続けば癖になり、自分の人生において思うとおりにならない事があると、苛立ち嘆きストレスを溜め込むようになってしまう。あぁなんてこの世は不平等なのかと、自分を嫌いになり、世間にも憎悪の念を向け始めたりするかもしれない。

 それは紛れもなく、制約というものを避難して、すべてに権利を求める強欲さに癌があると言わざるを得ない。もし背が低ければ、背の高い人が出来ることの何かが自分にはできないだろう。もし病気がちであれば、みんなが外で楽しく走り回っているときに、陽の当たらない部屋でじっと座っていなければならないかもしれない。もし事故で脚が一本無くなってしまったなら........家がとても貧乏だったなら........。

 望んでも叶わないことは、どれほど高貴な家柄でお金持ちに見える人でもあるし、本当はほとんどが不可能な条件の中で私たちは生きている。制約は人それぞれ内容が違っていて、他人を見て羨んでみてもそれはその人だから出来るものだったりする。

 世の中のどんな人にあっても、何かしら制約された中で生きていることを、考えてみるべきじゃないだろうか。もしかしたら、見るからに順風満帆幸せいっぱいに見える人が、じつはあなたよりもっと、とてつもなく大きな制約を抱えて生きているかもしれないのだ。

 制約というものから、私たちは何を見つけ出すことができるか。誰の得でも都合でも利益でもなく、一人残らず皆が自ら抑えて社会全体の秩序を保つこと。そして自らの人生そのものを、どんなかたちであれ受け入れること。そのために「制約」は必然として存在するのだと、私は思う。

 人生、望んだとおりになど成りはしない。出来ないとかさせてもらえない、叶わない、足らない、そういう限られた世界に生きる中でこそ、本当に素晴らしい感性は育つのではないでしょうか。