梅原淳の心*體みなぎるエッセイ/Playground Heroes

運動の専門家が子どもたちの成長をスポーツ*子育て*教育など、あらゆる視点から応援します

同じ力量しかし天と地の二人

 素晴らしい好成績を出した人が二人います。自分で自らそれを成した人と、他人の力で得た人と。ここには大きな違いがあります。

 いかに良い結果を出したとしても、実力のあるプレイヤーになれたとしても、コーチによって作られた選手は、その先をどう生きるのでしょうか。

 チームを見ていると、やはりふた通りの選手が見えてきます。同じ練習を同じだけ頑張っています。コーチもがんがんハッパを掛けますが、やはり自分の力で色々と考え創意工夫している選手は、コーチの枠内には収まっていません。

 自分で練習の中身に少し色を付けて難易度を上げてみたり、今の練習テーマの大枠の中に個々の工夫を入れてみたり、挑戦をしてみたり。それはもしかするとコーチの指示どおりではないのかもしれませんが、彼なりにそのテーマに沿った上で先を行っているのであるし、真剣にやっていることには変わりないので、コーチが口を出す範疇にはありません。

 そうした人間関係を構築していった先には、指導者側もある程度距離を置くというか、好きにさせている部分を作って選手と付き合います。もちろん締めるところは締めますが、技術的なものにおいては彼自身で身につける素養として、任せるのです。

 一方で、常に厳しく手取り足取り教えてもらっているタイプのプレイヤーがいます。よく怒られるというか、檄を飛ばされる選手です。何かにつけてその選手の名が挙がり、今のプレイはこうだ、もっとこうしろ、それはおかしい、違う、まだ努力が足りない、と我が子のようにマンツーマン指導がおこなわれます。

 もっと他の選手も見てというくらいの熱の入れようです。他の選手からすれば羨ましいかもしれませんね。そうやって目を掛けてもらって身体能力や技術が上達していき、チームに欠かすことのできない主力選手になる人も多いことでしょう。

 でもこの二人には凄まじく大きな、絶対に埋めることの出来ない差があります。それは自らがそこに立った選手と、人の助力で作られた選手の違いです。

 コーチにべったり抱きかかえられて、やれ行けそれ行けと走らされてきた選手は、そのコーチから離れた後、どうやっても力を伸ばしていくことができません。

 自分がどのようにしてここまで上達したのかが解らないからです。コーチにしごかれ、気がつけば良い成績を取っていた。訳もわからずただただ耐え抜いてきただけのプレイヤーは、どうして自分がその舞台に立っているのかを、自分で説明することができないのです。

 コントロールされて他人に作られた栄光は、その人を輝かせる“生きた力”になっているでしょうか。

 高校では素晴らしく活躍した名プレイヤーが、その後の大学や社会人でぱたっと影を潜めてしまうことは、決して稀ではありません。それは小学校から中学、中学から高校、高校から大学、大学からプロと、すべての段階において生じ得る問題です。

 そのチームでは輝けたけれど、次のチームに行ったらまるで上達できなかった、そんなことって種目に限らずたくさんあると思います。あんなに上手だったあの子が、どうして上ではプレイが伸ばせないのだろうと、不思議に思うことはありませんか?

 いかに今この目の前では素晴らしいパフォーマンスで、一所懸命にボールを追い掛けていて、スキルも精神も素晴らしい!そう思っても、それが自らの力ではなく作られた輝きだとすれば、そんなプレイヤーの伸び代は、歳が上がるほどに期待できなくなるかもしれません。

 真面目で忠実で直向きな選手は素晴らしいのですが、それが主体性ではなく他者のコントロールということになると、将来的にはその習慣が足かせになってしまう可能性もあります。

 そのコーチがいなければ上達できないという状況を回避して、自ら成長するスポーツライフを過ごすことが、ほとんどの人の願いだと思います。厳しい鍛錬はあっても、自分というプレイヤーの個性は磨かねばなりません。どんな環境でも力を伸ばしていける底力が必要です。

 そのためにはやはり常日頃から自分で考えて、自分の意思で選択し、自分のことは自分でおこない、起こる事象や結果には自分一人で向き合うことを、繰り返していくのです。

 それはスポーツの中でではなくて、日々の暮らしの中で。

 自分で掴んだものだけがただ一つ、あなたの本物の力と成り得る。それを考える二人の、同じ力を以てして全く非なるプレイヤーのたとえでした。

(※これは架空の話です。実際にそのような人物がいるのではありません)