梅原淳の心*體みなぎるエッセイ/Playground Heroes

運動の専門家が子どもたちの成長をスポーツ*子育て*教育など、あらゆる視点から応援します

自分の頭で考える その二

 前回のブログからしばらく間があいてしまった。続けて書くつもりが、仕事含め日常の煩雑にのまれているうちに....なんて言い訳をしてはいけないので、また続きを書いてみたい。

 さて団体競技、集団スポーツ、言い方はなんでもよいが、複数人でグループを作って戦う競技の落とし穴について前回書いた。それは社会生活においても同じ構造が見られる。私たちは多かれ少なかれ集団として生きている。その中で歩むとき、いつの間にか誰か何かが作ったレールにちょこんと乗っかって運ばれていくだけの人生になっていることに、気がつく者はわりと少ない。

 スポーツにおいても「チーム」というものがあるが、その活動の中で個が死んでしまっている可能性がないだろうかと問題提起をした。気づかぬうちに決められた事に付き従っているだけの毎日、その枠に収まってやり過ごすだけのおのれになっている。

 それじゃダメだ、自分じゃない。自分を成長させることはできない。気がつこう。自分の頭で考えよう。

 チームの活動においては、身勝手な振る舞い、個人の都合で行動することは認められない。それはその一人のために全体が崩れてしまう可能性があるからだ。社会において集団には一定のルールがあり、それを全員が守るということが求められる。自分のためにではなくみんなのためにと。

 それはもちろん至極全うで素晴らしいことだと思うが、現代の集団行動は、個人の一挙手一投足にまでこうするのだという模範を示してそれに従わせている。本来ならば「みんなのために貢献する」という支え合いを前提にしつつ、その上で個人が何を考え何を希望しどう行動しようとするかは、本人の裁量に任せることで良いはずだ。

 それを幼い頃から行動の全てを型にはめて、はじめから「こぼれ」が出ないように出ないように配慮するという、大人の過剰な手回し、御膳立てが、ものを考えない若者を作ってしまっている一端であることは間違いない。気を遣ってあげ過ぎだし、手を差しのべてあげ過ぎている。言葉を換えれば、かまい過ぎじゃないだろうか。

 スポーツの場面に話を戻すと、私たちコーチは、教えることに一所懸命になり過ぎてしまっているかもしれない。自分が何を言いたいか、今なぜそれを指摘しているかみたいなことまで熱心に解説をする。できるだけ事細かに伝えようと努力しているし、見つけたアラは全部注意する。ようするにしゃべり過ぎだ。

 こうやって面倒を見過ぎてしまうために、それがコントロールすることへと変化して、子供たちの行動ひとつひとつについてコーチが指示を出し、この場合はこうしろと型を作っていくようになる。

 よく体育館やグラウンドに入ると、すかさず選手がイスを出してくれたり、お茶は要りますかと聞いてきたりする。カバンお持ちしますと言ってくれたりもする。よく躾が出来ているなと感心する人もいるだろう。でもそこに「その人のために」という自分自身の意は少しでもあるのだろうか。

 何か話すととても素直に「はい」と返事をするのを聞く度に、機械的なものを感じてしまう。私は不安になり気持ち悪くなる。その人間の感情が見えないからだ。たまに顔の奥の感情が見える子供だとホッとする。

 こんなことがおそらくだが、日本全国のスポーツ現場で、普段の練習においていくつも起こっていると推測できる。私たちスポーツチームの指導者が個を消している現状について、次回もう少し踏み込んでみよう。