梅原淳の心*體みなぎるエッセイ/Playground Heroes

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コミュニケーション能力と日本の教育

 一昨日、埼玉の浦和でトステン・ロイブル氏のバスケットボールクリニックがありました。コミュニケーション能力についての内容だったのですが、バスケットボールのドリルとも併せて声を出す練習というものを、参加した子供たちをモデルにして教えてくれました。

 私は正直に申し上げて、このクリニックに参加した意義は深かったなと思います。それはトステンが教えてくれた練習法がどうのでなくて、改めて日本の教育や子育ての誤りについて、自分がこれまで考えてきたことも含めて、より明確に認識することができたと思ったからです。

 ここで重要なことは、バスケットボールの練習の中でコミュニケーションを作る方法とか───もちろんトステンはそういうことを教えてくれたわけですが───私はそういうことの話ではないと思っています。コミュニケーションスキルとは、それで解決する問題ではない。トステンが言う「日本人はコミュニケーションが足らない、もっと声を出さなければいけない」という問題提起は理解できます。それは私たち日本人自身もよく分かっていると思います。ただ、練習で声を出す訓練とかドリル云々で変わるものではないと断言できます。

 トステンの練習法に異論があると言っているのではなくて、私は今回のクリニックに参加して、よくよく、私たち日本人が持つ国民性というか、気質、性格といったものを丸裸にさせられたような気がしました。高度に経済発展した物質的に裕福な日本の、システマティックな教育、レールの作られた環境、それは社会に出ても同じだと思いますが、すべてこうだと決められた中をただその通りに歩く社会に、大きな問題が孕んでいるのではないでしょうか。

 日本では「おおかたこうすれば」というのがあります。それに倣って人生をいけば、あとはぼちぼち社会は認めてくれる構造になっています。一から十までこうすればうまくいくと示してくれて、その範囲からはみ出すことがなければ、つまりだいたいのところで言うとおりにしていれば、問題なく人生を進んでいけて安定できます。それをまた子供のために大人が用意してあげるわけです。失敗しないように。

 政治を見ても分かりますし、自分自身の生活周辺を振り返ってもわかりますが、多くの日本人は「人任せ」です。それは個人というよりも日本人的な特徴だと私は思います。私たちは子供の頃からそういうふうに育てられ、またそんな社会の中で育ってきたからです。子供自身のことを大人がやってくれます。日本の社会は規則的過ぎるために、そこに従属していればという感覚が当たり前になっています。もちろん誰もそんなこと感じてはいません、私たちは無意識です。

 私は以前「至れり尽くせり」というタイトルの記事を書いたことがありますけど、まさにそんな恵まれた社会。御膳立てをもらい、システマティックであり、レールを敷いてくれるのが日本です。そんな中でどうやって「個」が育つというのでしょう。

 子供たちは───当然大人もだと思いますが───たいてい人よりも後から動きます。私が子供たちの行動を見ていて思うのは、みんな人の後ろにまわろうとし、必ず全体が動き出したあとから遅れて動こうとします。つまり、誰か何かに「着いていく」という行動なのです。物事を自分の頭で考えていません。とりあえず誰かの後ろにくっついていけば間違った行動になはらない、はみ出す心配はない。そうやって人の真似をする、全体に同化するという性格があります。これは自分自身だけの感性で見て、聞いて、考えて、決める、という主体性が欠落していることを表しているように思います。

 私が必要だと思うことは、日本人が皆それぞれ「個」になること、ある意味では孤独になれることだと考えています。個の色を抑えて全体の模範的な行動というものを決め、それに予め沿わせるのが日本の教育の根幹にあります。現代の、と言うべきかもしれません。日本人は個を持たない、自分の主義主張、信念、支えを強く心に持っていません。だから人任せです。人の後から動こうとします。全体に合わせようとします。一人になるのが怖い、個になれない。

 それは、幼少期からの、もっと言えば日本教育の根幹が、私たちをそうさせているのです。個を育むことをせず、集団に倣うことばかりをやらせる。子供の頃は、自分の欲求がものすごく強い時期です。「駄々を捏ねる」というのはそういう象徴だと思います。本人が何をしたいのか、どう思うのか、どんなことを考えているのか、子供たちの意思をつくる大切な育みです。小さい頃から物事を真剣に考えたり、ひたむき懸命に努力することは大切です。それを抑えて、頭で考え意見を持たせることをさせないで、型だけの集団訓練を真っ先にさせているわけです。それで身についたものを「社会性」と言うのでしょうか。日本は国家としてそういうシステムが出来上がっているのです。

 個で考えない───正確には考える環境を与えていない───とか個で決めない、周りに合わせ流されていってそれでも社会であたり障りなくやっていけて、そんな環境で育った人がどうやって、複雑に状況変化の起こるスポーツ・ゲームの中で、瞬時に声を挙げたり常に話しながらコミュニケーションを取れるというのでしょう。だから、声を出す練習方法なんていうことで変わる問題ではないのです。

 再度言いますが、トステンの教えてくれたことが悪いなどと言っているのではありません。非常に大切な事を再確認させてくれましたし、現場に有益かつ高度な習得テクニックを教えてくれました。でも彼には悪いですが、日本人が抱える国民性とも言える気質・性格が間違いなく存在しています。それが海外の人から見て、日本人はコミュニケーションが足らない、声を出さない、意見を言わない、何を考えているかわからないなどと言われる理由だと、私は思うのです。

 しかし一方で、疑問に思うことがあります。本当に私たち日本人は他人とコミュニケーションが取れないのですか?人と親しく言葉を交わせないのでしょうか。もちろんそんなことはありませんね。私も皆さんも、しっかりと社会的に会話をする能力があります。しかも高い言語力で。これも以前このblogでも書きましたが、日本は国民の誰もが一般的な読み書きのできる大変優秀な国家です。多くの語彙を持ち、多彩な表現力を持ち、自分の頭で考えている事を正しく伝えることを、誰しもができます。日本の子供たちは友人同士でコミュニケーションが取れていないのでしょうか。全然そんなことありませんよね。教室でも、外で遊びながらも、楽しく会話しています。どちらかというと子供は自由ですごくおしゃべりです。だから会話ということで言えば、コミュニケーション能力は高いと言えます。

 ではなぜ、例えばバスケットボールのプレイ中、ゲーム・練習において、急に口数が少なくなってしまうのでしょう。海外の人が言うように、大事なときに日本人は口をつぐんでしまいます。私はこれが、先ほど少しお話しした、子供の頃から物事を真剣に考えたり懸命に努力したり、そのことを真面目に話したりする習慣が少ないことに1つの原因があると思うのです。

 気易いこと、安直なこと、どうでもいいことは友達とよく話す。親とも。浮ついた「楽」な内容については会話のテーマになる。時代が進むにつれ、日本社会が裕福で安定的になるにつれ、そんな無意義な会話が増えていき、そればかりになり、自分にとって大事で有益な話は皆無に等しくなってしまいました。そこには枠に入り、はみ出さなければそこそこ普通に進学・就職して生きていけるレール式の日本社会の存在があります。自分の身に迫る決断とか責任とか目標とか、そんなことに意識を向ける必要もなく、ゴシップや娯楽的な話題が中心です。

 高くはないが落ちこぼれないレールがあって、経済的にも大変裕福で、楽しい娯楽もたくさんある。そういう現代で自分の人生を真剣に考えて生きていくことは浮世離れなのでしょうか、間違ったことなのでしょうか。私たち日本人は本来、とても真面目で勤勉で一所懸命です。コミュニケーションも高いスキルを持っています。そういう資質を持っている民族なのです。どうぞムダとか面倒とか言わずに、必要ない意味ないなんて流れに身を投げないで、一度自分の頭で考えてみませんか?

 たしかに海外の人が見るように、日本人は対外的な場でものを強く言いません。でもその優しさ気配りの気質を私は素晴らしい事だと思っています。そのおかげで日本人には「雰囲気を悟る」「察する」という目に見えないものを知る力があります。しかし、その力も最近は無くなってきている気がします。ある意味では危機的なことです。

 もっと家庭で子供と大事な話をしませんか?やはり親なんです。親の影響は大きい。それがすべてと言ってもよいくらいです。親が子供と真剣に対峙しなければはいけません。気易いことばかりに目を逸らして、子育ての重要なことを見ないようにしていてはダメだと思います。子供と普段から中身のある有意義な話をするべきです。議論もするべきです。子供は私たち大人同士の会話をちゃんと聞いていますよ。子供の横で大人のしている会話が薄っぺらくてくだらない話題ばかりだから、それがうつるのではないでしょうか。生真面目な話であっても興味のあることなら会話も弾むんです。真剣なことだったら声も出ます。

 日本人はコミュニケーション能力に長けた民族です。遊び事にうつつをぬかしていないで、自分にとって大事なことについて日々考えたり話したりするようになれば、バスケットボールでの声だって出るようになるはずです。互いに重要な場面こそ言葉を交わし議論し、困難な状況を切り抜ける力がつくと思います。さらには自分の価値観に基づいて目の前のことを思考し、自分の責任において発言、行動するようにもなるでしょう。

 「個」を持つこと、生きることについて考える事、それを家族や友人と話すこと、それがコミュニケーションスキルを高めるために、いま日本人に必要な努力だと私は思います。