食の議論をすれば、ホントかウソかあれが良い悪いと無限にいろんな話が出てきます。
僕は興味があって深めたいと個人的に思ったので自ら実践してきましたが、それでなにを得ているかというと、自分なりの食生活をどうするかのプランが出来上がるというだけです。
物事に結論を付けたり、学術的な正解を見つけることをしたいのではなく、自分の體を健やかにして有意義に人生を送りたいので、調べもするし自分でも取り組んでいます。
それをストイックと言えばそのとおりの部分もあるかもしれませんけども、自分の意思でしたいからしているだけであり、したくなくなったり不要だと思えば迷わず止めるでしょう。
だからと言ってなんでもが個人の感性と好みであると、物事を安易に済ませようとも考えてはいなくて、一定の必要性と有効性は普遍的に認めています。
文章中でしばしば「〜すべき」「〜の必要がある」と書くのは、主にそういった内容の場合です。
食べることは、現代の食料事情やこれまでの変遷を辿れば、無秩序に「好きな物を好きなだけ」で良いとは決して思いませんし、個人における影響の有無を否定も誇張もしません。
可能性の話を正否で分けようとすると苦しくなり、そもそもこの世は良い面と悪い面どちらも持ち合わせているので、一色に塗ろうとすることは物事を誤ります。
僕が家庭で決めている食の心掛けはここへ書けば何行にも続くでしょうけども、実際はごく当たり前な誰でもよく耳にする内容がすべてであり、キャッチーな「たったこれだけで変わる!」みたいなものはひとつもありません。
言うなれば、地味に地道に落ち着いた優しい食事を心掛けているということです。
つまり食というのはその程度のものであり、大きく針の振れた善悪的な断定の仕方をしている話はすべて眉唾なんです。
そこは明確にしておきます。
対極を一切退けるような偏った見方が人々の暮らしに入り込んできて、みんな安易に信じ込み引き寄せられていきます。
実際はどちらの要素も孕んでいるのに。
食に関わる話は、こういったケースが多いんです。
だから片方では「あれはダメこれは危険」とすべてを恐れて拒否し、その反対側では「一切気にせず好きな物を好きなだけ自由に」と言っていて、お互いを意識し合ってどちらも針が振り切れてしまっているわけです。
本当は事実として良質と悪質はあって、その程度も大小様々で、どういった影響が自分に及ぶかについては将来起こる結果でしか知り得なくて、数字は示していてもそれはただ可能性を見せてくれているだけです。
食とはそれだけの曖昧な話であり、事実を客観的に知ることしかできないものをどうにかして結論付けたいが為に、今度はエビデンスを盾にして論争が始まります。
こちらは理論であちらは感情だとか、データが示しているから間違いないとか、でも結局は他者のお墨付きを援護にして「自分の意見」を正解にしたいだけだったりします。
なにを言いたいか分かるでしょうか。
食と健康にまつわる論争は、果てしなく不毛だということです。
何も考えなくて良いなんて意見は軽率だし、◯◯を摂れば治る痩せるみたいな思考も安易です。
また、あまりに怖がってオーガニック信者になるのも、かなり行き過ぎた感情だと言えます。
物事には右の面も左の面もある。表もあれば裏もあるんです。
両面が必ずあって存在するものなので、そこを自分なりにどのように気を向けるかの問題です。
食べることに複雑な話はないので、誰でも解りうる知識から自分がなにを信じ、選択するか、それに尽きます。
人間の体は食べる物でつくられていますから当然ながら真っ当な食事をしたほうが良いし、もし病気など想定より悪い事態が起こったならば身から出た錆と戒めるしかありません。
原因は必ず、己のしたことの中にあります。
以下が僕の食事の基本です。
①主食はできるだけ米にすること(小麦ではなく) ②味噌汁があること ③野菜が多いこと ④家では魚を食べること(肉よりも) ⑤調味料に砂糖を使わないこと ⑥調味料は質の良いものを基本とすること ⑦乳製品を減らすこと ⑧塩分を多く摂ること ⑨冷たい飲料に気を遣うこと ⑩水分を摂り過ぎないこと ........
ほらね、やっぱり。
これはほんの一部で、ちゃんと書いたらこの何倍かになるでしょう。
でもね、飽食をやめて質素に地味に食べる、それだけのことです。
我慢したら体に悪いって考える人もいるでしょうけれど、勉強した上だし好きでやっていることなのでストレスになることもありません。
いまのところは、ある程度のケジメをつけてこのような食生活をしていこうと思っています。
みなさんも、自分なりのルールを決めてぜひ漲る体を養ってください。
そう難しくない一定の知識は必要ですから、少し調べて勉強しましょうね。