最近、評論家という職業にいささか疑問を感じています。
主にTVをはじめメディアを仕事のフィールドとしている人々で、様々に得意分野があって精通しているかのように、僕らは見ています。
でも実際はたいして深い情報や分析を持っていなかったり、憶測でものを言っていたり、堂々と間違ったことを事実であるかのように語っている人もいます。
もし本当に精通しているのならば、きっと評論家じゃなくてその材料を駆使して実務を行う現場の人間のはずです。
実務者でもないのに、TV等でその分野の専門家のように振る舞っているのがどうも解せず、発せられる言葉も間違いや想像や個人的気持ちであって、もはやご近所同士の噂話レベルを職業と言っていることに呆れてしまいます。
評論家って職業なんでしょうか?
たとえば不肖スポーツトレーニングの専門家の端くれとしての僕が、実務として食の知識を持っている事と、TVのグルメレポーターが仕事として持っている知識やその技術は違いますよね。
いくら同じ「食べ物」のテーマでも、僕がどんなグルメを語れますか?
自分自身をグルメだなんて一度たりとも思ったことはありませんし、実際は真逆と言ってよいほど舌にはまるで自信がありません。
このblogはじめSNSの投稿に食に関してアップすることはあっても、月8〜10本を配信しているレポートにそれを書くことはあっても、決して美味しいものを食べ歩くグルメでも食通でもなく、あるとすればただ體のために普段の食事は新鮮な食材を口に入れようという意思です。
そして人間ですから、少なからず好みがあります。
これは僕個人の好き嫌い、いやそれほどの強いものでもなくて、なんとなく気に入っている料理や味付けくらいはあって、あくまでも好みです。
それを評論するつもりは、これっぽっちもありません。
言いたいことは、評論家って何をどう言おうがその程度の場所からものを言う人であり、それなのに強く断定までして決めつけることをしている変な人たちだってことです。
仕事で評論家をされている方が読まれていたらごめんなさいね、でもその実態はただの「しったかぶり」の人間という事実があります。
だから僕らが日常で身勝手に噂を立てるのと、中身はまったく一緒です。
それで本題ですけども、評論家について定義しようというのではなくて、僕らの普段における「決めつけ」は自分を狭く閉じ込めることに繋がるので気をつけようという問題提起です。
物事について「こうであるはず」「こうじゃなきゃダメ」という論調がありまして、それは世界が狭い人間の感覚です。
そのまま食の話で進めますが、たとえば「米はうちの県が最高」「日本酒と言えば我が地元」「ラーメンはこの味」「牛肉は〇〇肉が最強」「海の幸は〜」などなど、御家自慢は多々あります。
たしかに美味しいけれど、どこが一番とかどこの味が正式とか、すべてをひっくるめてひとつの価値観で見ることは、さすがに横暴だということです。
でもそれを言っちゃっている人は少なくない。
手前味噌が行き過ぎて、自分のところ以外は低レベルっていう見方まで起こります。
これはグルメと話は違いますけれども、まったく同じように僕にはその感覚がありません。
どこのものでも美味いものは美味いし、不味いものは不味い。
ただ、それだけです。
各地域のそこで生まれて育まれてきた味があるし、だいたいとんでもなく美味いものなどこの世にあるでしょうか?
得る感触は違えどその土地の特色が出ているのであって、それを感じようとするか頭から拒否するか、人間の価値観はその程度のものなんですね。
札幌のラーメン?
たしかにうまいけど、他県のもイイじゃないですか。
ちなみに僕は北海道に故郷があり、いまも母親が札幌で暮らしています。
地元のラーメンは大好きです。
新潟の日本酒?
たしかに美味しい。でも他県のだって好きだナァ。
松坂牛?
イイよね、でも名前が付いてなくても、有名でもないけど美味しい肉はあるよ。
物事を「こういうものだ」と決め込んでしまうと、見る世界が広がっていきません。
視界が狭いということは、深めることもできない。
世にある「評価」というものにじつは意味があまりなくて、あれはほとんど自分の好みに合う合わないの判断に過ぎません。
この冬、fbを通じて熊本の農園さんからイチゴを買いました。
とても美味しかった。
じつは熊本は、栃木と福岡に次いで苺生産量の多い県です。
でも簡単に見てしまえば、「苺は栃木か福岡が有名でしょ」となりますよね。
一生その美味しい熊本の苺に出会うことはできないわけです。
さらに馴染みの寿司屋ではいつも全国各地の魚が入っていて、本当にどれも最高です。
海産物は◯県だ!日本海だ!イヤ太平洋だ!北海道だ!・・・そんなものに順位はあるんですか?
温泉だって全国行きますけど、有名じゃなくても良い場所はたくさんあります。
上か下かなんて、ないんです。
本当に良いものに出会いまた知るためには、自分を狭めずすべてを見ることです。
そこで決して評論せず(つまり合否正否など付けず)、その特徴をありのまま事実として知ること。
それがものを考えるための材料となる本物の「情報」ですから。
個人の好みでランキングや正否に振り分けをしてしまっては、それが手に入らなくなります。
物事はたえず考えることが重要です。考えることで前へ進み続けられます。
考えるためにはひとつの場所に籠もってはいけなくて、自分のフィルターも外して事実のままに情報と知識を蓄えることが肝心です。
だから評論をするのはやめましょう。
自分にとってマイナスにしかなりません。