梅原淳の心*體みなぎるエッセイ/Playground Heroes

運動の専門家が子どもたちの成長をスポーツ*子育て*教育など、あらゆる視点から応援します

外野が他人の人生に立ち入ることをやめて、本人が己を育てていくことを育成の真ん中に出来たとき、これらの問題は進み出します

 育成でも子育てでも教育でも、議論するのは大人側ばかりということを僕は言い続けています。

 話の主体は子どもなのにそれを大人が決めようとすることが、これらの問題がいっこうに発展しない本当の原因です。

 子どものことを親や大人が考えてあげることが、なぜいけないのか。

 子どもについてだけじゃなくて大人と大人の間柄でも同じで、たとえば会社組織で同じ成人した社会人の部下と上司、先輩後輩みたいな関係も、主体を無視して他人がそれを決めようとすることは、必ず不具合が生じます。

 とくにいま、いじめ、体罰、ブラック企業、パワハラ、セクハラと、個人の尊厳に関わることが社会的な問題になってきて、それをなんとか変えていかないと危険だという認識が広がっています。

 そういう流れの中で、この純粋な善意が見えざるところで負も生んでいるのです。 

 

 ものごとにはすべて、プラスとマイナスの両面があります。

 子の将来を案じて親が世話をやくことは当然どの家庭にもあるはずですが、それは現実を言えば良い面よりも悪い面が強く出ます。

 人間の生きる世界において、良かれと思ってしている行為が裏目に出ることは珍しくもありません。

 その行為と気持ちは本当に真っ直ぐなものですが、だからといって良い方向へ向かうかどうかは別です。

 意思のある人間同士のやり取りですから、ことさらぶつかり合う可能性が高くなりますね。

 みんな自分の考えと気持ちがあり、またその権利も憲法で定められていて、他人にその領域を汚されたくないのです。

 それが本当の個人の尊厳です。

 つまり育成を考えることや教育を考えることは、本人がどう輝くかを中心にすることが本質であって、いま議論されているそれらはどこまでも外野が勝手に物事を定めようとしているに過ぎません。

 それは高らかに尊厳と言いつつも、本当は蔑ろにしていることをしているわけです。

 

 この時代、僕らは「誰々のために」と言って相手の道に踏み込んでしまいます。そこで勝手に自分が決めてしまっています。

 いやそれは相手の生きる課題だぞと。あなたのではないぞと。

 他人のことを勝手に決めようとしてしまっている不幸を考えてみませんか。

 人間関係の色んな場面で「〜のため」という独りよがりが増え、心配という過干渉が増えています。

 良い意味で言えば責任感が強いということですが、結果としては大きなお世話となっていないでしょうか。

 最後まで面倒を見なきゃと、結果や成果を保証することまで我が責務とするのがいまの日本のスタンダードです。

 面倒を見るというのは、他人の成功に責任を持つということなのでしょうか。

 それでは自分がどんどん苦しくなるし、他人をコントロールしようとすることに繋がりませんか。

 日本社会では問題が起きたときにイーブンがなくて、「誰が悪い」「どっちが悪い」と白黒の二択が強いのもこれに通ずるものです。

 すべてを育てる側が請け負うという考えが固定的にあるからです。

 

 育成だろうと子育てだろうと、本当に個人の尊厳を守るなら、太く濃い一線を引きましょう。

 他人の課題に口を出さなくていいと思います。

 それを社会通念などとして「〜すべき」をつくらなくていいのです。

 世界でもっとも長くオリジナルな民主主義を守ってきた国なのに、いまは「みんな同じようにこう考えるものだ」の雰囲気があまりにも多くありませんか。

 それだと自らを動きづらくしていくだけです。

 なんでもかんでもを社会問題にしすぎなのです。

 あらゆることを全体的な話にするから過干渉が起こるわけですね。同様に「〜のため」という自己陶酔が増えるのもそれです。

 

 社会のためや他人のために自分がしてあげられること、その先は各個人の領域であるからタッチしないというスタンスが、フェアな民主主義です。

 たとえ辛いことが待ち構えていても本人の道には踏み込まない、小さな親切大きなお世話をやめる、そこから自由が生まれて個人の人生が輝くと僕は信じています。

 さらにそうして分をわきまえることが僕たちの根っこに広がれば、人のせいにしないことであったり、自分に責任を持つ覚悟をもつことの精神にも繋がります。

 現在のちょっと捻れた育成、教育、子育てが健全になるのは、180度がらっとひっくり返すことで実現できると思います。