梅原淳の心*體みなぎるエッセイ/Playground Heroes

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なぜフェアな意見交換が日本では起こりづらく、文句の言い合いや否定し合い、陰湿なイジメが起こるのかを説明します

 日本人は新しくものを創ることが苦手です。

 それは決めることが下手だからです。

 新しく決めることが苦手なので、当然そこから創られるものはありません。

  「これまでどおり」「慣習にならって」「いつものように」、変えないことが一番楽であり安心だと考えます。

 でもそれは変える苦労や生み出す苦しみから逃れられたという楽や安心であって、現実には旧態依然とした社会のありようにいつも自ら苦しんでいます。

 それでもなお、変えることができません。

 これほど動くことを嫌う国民性もほかにあるでしょうか。

 

 日本国は世界で類を見ないほど長く続いてきた稀な国家であり、僕たち日本国民には大昔から君主が存在し、暮らしは整備され憲法も法律も既につくられた中で万全に暮らしてきました。

 アメリカや中国はじめ他国のように、そう遠くない現実的な過去に自分たちの手で国づくりをしたという意識が日本人にはないために、先人たちが創ったものを今から変えるという行動力を持たないのだと、ある国政に携わる人物が話していました。

 僕はそれを聞いて、なるほどなと自分の日々を振り返り、また日本的な考え方のルーツも少し理解しました。

 日本人のコミュニケーションの前提として、フェアに意見を言い合うというスタンスがありません。

 また異なる意見を好まず、またそれらを否定的なものと認識する感覚がありませんか。

 異論は非論ではなくて(こんな言葉はありませんが)、個々人のオリジナルな考えや思いがあるということです。

 それが日本には馴染まないというより元々にして持ち合わせなかったので、個としての意見よりも、全体的に賛同される意見が正解とされ、それを言える人が社会通念のある人だとか出来の良い人となります。

 だから個の主張はせず、これが世の正解というかたちで話が進むことが多いですよね。

 体勢に寄るってことです。

 個人の意見だと愚弄され、別のところに真理的な正解がありそれを言ったものが偉いかのような立場になる。

 それが僕ら日本のコミュニケーションです。

 

 でも本当はどんな意見でも、それは個人の考え方です。

 そこを逃げて「社会的な正しさ」みたいに言っても、それはあくまでその人の見解であって、つまりすべては各々の意見ということです。

 本当はみんな自分の意見を言っているに過ぎなくて、そこから創作していけば良いのですが、日本はどうしても異論を非論と扱い、聞く側も言う側も相手を否定する発言になってしまいます。

 話し合いをする際、ついつい他の意見を潰して自分の意見を成り立たせるという感覚になってしまいませんか。

 よく考えればそれぞれ独立した中身なのに、すべてが揃って並ぶことはありませんよね。

 AではダメでB、BじゃなくてCというように。

 なぜか責め合い、攻め合いになります。

 二択が多く、ほとんど180度の反対意見しか出ません。

 A2とかB3の意見みたいなのってほとんどないですね。

 

 意見交換になると、いつもぶつかり合いで二者択一になるのが日本のスタンダードです。

 基本的な感覚として異論を受け付ける器がないので、会議などでも声が上がらず、また上がれば文句や否定が多くなります。

 献身的な話し合いができず、何度その場を設けてもいっこうに前へ進まないということが当たり前に起こります。

 そうなれば面倒を嫌って「いつもどおり」となるでしょう。

 なんだか負のスパイラルですね。

 もうどこから始まったのか、変えることが苦手だから?話し合いが苦手だから?個の意見を認めないから?とにかくずっとグルグルその繰り返しです。

 

 そんなことをじっくり考えていくと、陰口が多かったり、意見がつねに文句的になってしまったり、陰湿な現代的イジメの起こるメカニズム、そういったものが読めてきました。

 行政が対応の悪さ遅さで非難を浴びる原因も、ここにヒントがありそうです。

 これを読んでくれているあなただからこそ、考えていただきたいことがあります。

 どうぞご自身の人生のスタンダードとして、これからはすべて絶えず変化すると認識してください。

 どんなことも同じであり続けることはなく、変化を基本として日々新しい時代を創作していきませんか。

 良いと思えばやってみる、もしかしてと思うことがあるなら変えてみる、そこから本当の明るい日本が見えてくると信じます。