新年、明けましておめでとうございます。
みなさんはきっと、このコロナ渦も重なって、いつもより自宅でのゆったりした正月を過ごしていることでしょう。
僕は今日1月2日から、埼玉の高校バスケットボール部で練習を行いました。
あくまで個人的な感覚ですが、家でゆっくりするよりこっちのほうが頭も體も漲ります。
な〜んにもしない、ということが僕には向きません。休むという言葉が合わないというのか、もし仕事は休むとしても、何かしら生産的な活動をして有意義な時間の中にいたいタイプです。
そうしていないと、もう退屈でしかたありません。なにもしないことが、僕にはとても耐えられません。
なにか貴重な時間を持て余しているような、大変勿体ない感覚に覆われてしまいます。
だから練習があると、仕事があると、やっぱり気持ちが良いです。
することがあるということが嬉しい。
休みたいとか、ダラッとしたいとは微塵も思いません。
したいことをする、しようと思うことが常にある、これは人が生きる上でとても重要な感性だと捉えています。
でも現実の世界は、自分からなにかをしたいと思うまえに、「しなければいけないこと」があまりにも多いように実感しています。
おそらく日本人なら、そう感じる人がほとんどではないかな?
これをしろ、の渡された課題を片付けることで時間がどんどん過ぎてゆき、一日があっという間に終わってしまいます。
仕事をしている社会人でも勉強中の学生や生徒さんでも、主婦や主夫でも、自分ですることを見つけて毎日を過ごしている人は、さてどれくらいいるでしょうね。
あなたは一日のうちに、自分の意思決定で活動する時間をどのくらい持っていますか?
計画的であっても思いつきでも構いません。外からの「しなさい」ではなくて、自分で意欲的にしようと思ってする生活が、私たち現代人に果たしてどれほどあるんでしょうか。
よくよく考えると、とにかく片付けなくてはいけない課題・宿題だらけではないですか?
それだからきっと、わずかでも休む時間があるなら活動を止めたい、休みたいとなるのかなと。
なにもしない時間が欲しいと願うのは、することが多くて忙しいからではなく、それで体力的に疲弊しているからでもなく、したくないことを「させられているから」だと思います。
もし、しなくてもイイよと言われたら、確実にしないでしょうね、そういう人は。
毎日を人からさせられることに忙殺されている人は、そんな生活を積み重ねるにつれて生産性を持たないヌケガラのような人間になっていくでしょう。
意欲は薄れ、さぼり癖がつき、怠け者になります。意義のない仕事や家事に翻弄され、ただそれをやっつけるだけの日々を過ごす。
それでは誰だって、なにもしない時間が欲しい!となるでしょう。
でもそうなると、自分の人生の貴重な時間を台無しにしてしまいます。生産的ではなく意欲的でもない活動を、このたった一度の人生でする意味なんてありますか?
ここから好転させるとするならば、どうすれば良いでしょうか。
世の中が悪い!と嘆きますか。いったい誰がどんなことを、あなたのためにしてくれるというのでしょう。
そうです、すべては自分で創っていくしかないのです。
自らの日常で起こることを自分で対処すること、自分の意思で動き出すこと、あくまで主体的に動くことで「させられる日常」から「する日常」へ変わっていきます。
そうしなければいけないからしている、という動機から、そうしたい(しようと思う)からしている、に変えていく訓練が必要だと考えます。
そういった地道な積み上げなしに活動的なエナジーは生み出せないし、まさか持続など皆無です。
なにもしないでボーッとしたい、休みたいと思う気持ちのある人は、おそらく「させられている課題」だらけで心が行き詰まっています。
それはいずれパンクするか、投げやり体質になるのがオチです。
すでに半分、そうなっているかもしれません。
いまのうちに改善するべきです。
本当にする意味のないことならば、思いきって放り出すのも一手です。
しなくても良いことをする理由はありません。意味や価値のあることに全力を注ぐべきです。
それを見極めるか、または意図もなく意味もよく考えずにしていた行動について、いま一度よく考えてそれに価値をきちんとつけるか。どちらかが必要です。
大きな言い方をすれば、僕たちはなんとなく無味に毎日を過ごすのではなく、自分の人生の歩き方をしっかりと決める必要がある、ということだと思います。
歳の若いうちに夢・目標を定めることが良いとされるのは、こういうことを意味しているんだと思います。
どうぞご自分の意思で活動してください。そうしたら休みなど、必要としないはずです。